式内 村岳神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 式内社 丹後国熊野郡 村岳神社
読み:古 ムラオカ、現 むらおか
所在地 京都府京丹後市久美浜町大字奥馬地字村岡201
旧地名 丹後国熊野郡久美郷
御祭神 思兼神(おもいかねのかみ)
相殿 倉稻魂命 武甕槌命
例祭日 10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
熊野郡(クマノ):11座(並小)
式内社

近代社格制度 旧村社

創建     年代不詳
本殿様式   流造銅板葺

境内摂社(祭神)

一口メモ

国道178号線の久美浜駅の手前を南へ、久美谷川に沿って2Kmほど南下し、口馬地を通り、奥馬地集落奥の北近畿タンゴ鉄道宮津線と交差する手前。

歴史・由緒等

当社は延喜式内社で字奥馬地に鎮座する古社である。古書によると村岳神は太刀宮の臣下で、社地撰定を命じられる、良地有るもこの事を秘し復命するも、のち露見し太刀宮憤り剣を抜いて追う。村岳神逃れて小字石仏の大石の影に隠れ、太刀宮誤って大石を切る。村岳神和を願い、両神大根を下物として和睦の宴を開く。この地をナガラガイと言い伝える。以後、神谷太刀宮の例祭りに奥馬地より大根を奉納するを例とする。太刀宮境内地にこの大石を「剣岩」として保存し事績を伝えている。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年

石仏の伝説    熊野郡誌より

伝説によるに村岳神は太刀宮の臣下にして、四道将軍旦波道主命山陰巡見に際し 前途の武運を祈らんが為め、出雲国なる八千矛神々を勧請し給ふ。此の時臣下に命じ社地を選定せしめらる。村岳神其の良地を秘す。依て神谷に社地を定め給ふ。後、此の事露見し、太刀宮憤り剣を抜いて追ふ。臣の神逃れて小宇「イシボトケ」に至り、大石の陰に隠る。太刀宮斬らんとして誤て石を斬る石分れて二となる。臣和を乞ふ両神大根を下物として和睦の宴を開かる。其の地を「ナカラガヒ」と言ふ。蓋し「仲直り」の意ならん。
以下略
追記、平成6年当区の土地改良事業により馬地谷小字「イシボトケ」より、村岳神社境内にこの石を移したものである。
「社頭掲示板」

境内・社叢

  
鳥居・社号標                   割拝殿

  
本殿覆屋


境内社

石仏の大石

当社は延喜式内社で字奥馬地に鎮座する古社である。古書によると村岳神は太刀宮の臣下で、社地撰定を命じられる、良地有るもこの事を秘し復命するも、のち露見し太刀宮憤り剣を抜いて追う。村岳神逃れて小字石仏の大石の影に隠れ、太刀宮誤って大石を切る。村岳神和を願い、両神大根を下物として和睦の宴を開く。この地をナガラガイと言い伝える。以後、神谷太刀宮(神谷神社)の例祭りに奥馬地より大根を奉納するを例とする。太刀宮境内地にこの大石を「剣岩」として保存し事績を伝えている。

地名・地誌

地 図

京都府京丹後市久美浜町奥馬201

交通アクセス・周辺情報

参 考

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